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2003.3.13 所属カテゴリ: 南アルプス / 登山 / 登山史年表 /

南アルプス登山史年表〈昭和・平成期〉

南アルプスNET―南アルプス登山史年表〈昭和・平成期〉
出来事
1927
(昭和2)
5月21日、山梨高等工業生350人が甘利山へ。
7月18日、京大の高橋健治ら4人が第五尾根から北岳。バットレス初登はん。翌19日には酒戸弥二郎ら3人が東北尾根を登った。
7月、加藤文太郎が赤石岳―聖岳―荒川岳―塩見岳―白根三山の単独行(8日間)。
9月、史蹟名勝天然記念物調査会が白鳳渓谷を調査、鷲の巣山の岩峰、荒川の煙滝などを確認。登山道や山小屋整備を提唱。
1929
(昭和4)
6月16日、山梨日日新聞社主催の甘利山登山団に900人が参加。臨時列車を仕立てた。
6月、県が南アルプス、八ケ岳、富士山などに高山植物看守人を配置。
8月25日、山梨師範学校の功刀文男、功刀昇が地蔵仏登はん。
9月19日、北岳で東京第一銀行の中沢達夫が下山中、風雨のため小太郎尾根で道を失い凍死。9月には甲斐駒で下山中の慈恵医大山岳部パーティー岡一男が戸台本谷に転落死。台ケ原から入山した東京の渡辺芳太郎が行方不明に。
12月30日から1月4日、三井松男、町田等ら観音岳。
この年の県内の山小屋宿泊者数は次の通り。五葉尾根32人、広河原272人、北御室314人(うち女3)、早川尾根141人、北沢396人、両俣174人、白根御池285人、北岳72人、間ノ岳216人、大門沢259人、赤岳356人、国師92人(うち女2)、破風93人(うち女3)、合計2702人
1930
(昭和5)
1月、北岳で慶応大パーティーが雪崩に巻き込まれ、野村実が搬送中に死亡。救援本部が韮崎に置かれ白鳳会がバックアップした。三井松男は観音岳下山後、救援活動に駆けつけた。昭和9年7月には白鳳会が野村の追悼碑を建立した。
1月19日、甲斐山岳会がガイドの講習会開催などを決める。また論議のある鳳凰山の呼称について近く見解を示す方針を確認。講習会は3日間にわたり案内人の心得、森林愛護、気象、地形図、衛生と外傷手当て、高山植物などを若尾金造、町田等、石塚末吉、大沢照貞、平賀文男、野々垣邦富らが講義した。
4月27日から30日、横浜山岳会の石田兵一、中本銀弘が台ケ原―甲斐駒―伊那。
5月4日から11日、平賀文男が荒川―間ノ岳―農鳥岳―大井川源流を縦走。
5月22日から26日、甲斐山岳会の武井四郎が尾勝谷―仙丈ケ岳―北岳―間ノ岳―農鳥岳―西山。
5月24日から27日、早川安治、鈴木喜太郎が鳳凰山。南嶺会に残る最も古い山行記録。
6月11日、甲府に南嶺会発足。甲府商業OBを中心に組織したもので、名前は大月桂月の「南高嶺」(南アルプス)に由来している。三井松男、今井友之助、百瀬舜太郎、鈴木喜太郎、大沢伊三郎らアカデミックな近代登山を目指した。
6月15日、第1回甘利山駅伝競走が行われ山梨師範が優勝。
6月、駒城の山岳開発協会が北沢小屋にラジオを設置、天気予報を速報。
6月中旬、県が山小屋修理に4班を派遣。南アルプス北部、八ケ岳、奥秩父。
7月1日、甲府測候所が南アルプスの天気予報を開始。
7月4日、白鳳会が韮崎駅前に南アルプス登山相談所を開設。
7月7日から9日、南嶺会の今沢茂、佐野一男が芦安―鮎差―荒川本谷―農鳥小屋―三国沢出合―大井川東俣―広河内岳―大門沢。
9月13日から21日、大沢伊三郎(南嶺会)ら池山吊尾根から白根三山に登り転付峠へ。
9月、関東山岳会の岩瀬勝男ら黄蓮谷右俣を初登。甲斐駒ケ岳のバリエーションの始まりを告げる。
11月、長野・戸台の竹沢長衛が北沢右岸に山小屋開設。
日本山岳会が冬の山小屋調査。山梨関係は甲斐駒第二屏風小屋(駒城村、中山玉樹、無料、燃料豊富)大樺池ノ小屋(芦安、甲斐山岳会支部、無料、燃料あり。問い合わせ先として甲斐山岳会と白鳳会)北沢小屋(美和村、竹沢長衛、無料)両俣小屋(同)富士山五合目石室桂屋(吉田、池谷佐重郎、宿泊2円)を紹介。北アルプスの常念は1泊60銭、槍平は同50銭。
1931
(昭和6)
6月5日から9日、南嶺会の百瀬舜太郎、今沢茂、鈴木喜太郎が大武川―仙丈ケ岳―戸台。
6月、丸茂平造、森健二が柳沢―甲斐駒―仙丈―馬鹿尾根―両俣―野呂川左俣―北岳―広河原―広河原峠―高嶺―地蔵ケ岳―韮崎。
7月17日、千葉高等園芸研究科生の清水基夫が北岳山頂の南で新種の高山植物を採取。後にキタダケソウと名付けられる。
7月22日、駒城村のガイド牛田佐市(水石春吉の実兄)が長野・小渋川で徒渉中に流され死亡。明大山岳部を案内、下山中だった。52歳。野村実の遭難報告書の中に佐市小屋が出てくる。
7月28日から8月1日、鈴木喜太郎と甲府商業生徒5人が白根三山。
8月20日、甲斐駒ケ岳で京大生石倉初雄(石和町出身)の遺体発見。単独で入山、7月11日に行方不明になっていた。
9月5日から7日、小林高行、延行兄弟が甲斐駒ケ岳―鋸岳。
県山林会が「南アルプスと奥秩父」、菅原村登山案内強力組合が「日本南アルプス登山案内」(25ページ、地図付き)を発行。
1932
(昭和7)
2月14日から18日、南嶺会の早川安治、長田賢、鈴木喜太郎が鳳凰山。
3月、黒田正夫・初子、仙丈ケ岳スキー登山。
4月27日から5月1日、横浜山岳会の石田兵一、中本銀弘が黒戸尾根から甲斐駒―戸台。
5月5日から13日、早大の小林高行(甲府出身、南嶺会)ら5人が五葉尾根から北岳。
5月20日、白鳳会総会で遭難対策として伝書鳩班設置を決める。
7月16日から、新倉(早川)の中根経三、新倉―二軒小屋―千枚岳―荒川岳―赤石岳―椹島。
7月20日から26日、南嶺会の百瀬舜太郎、今沢茂が転付峠―悪沢岳―赤石岳―聖岳―聖沢。
7月22日から26日、南嶺会の早川安治と甲府商業生5人が鳳凰山―白根三山―仙丈ケ岳―甲斐駒ケ岳。
7月22日から26日、甲府商業教諭の鈴木要・みつ夫妻、松本博吉が新倉から悪沢岳―赤石岳縦走。
7月31日、白鳳会の加賀爪鳳南が地蔵仏登はん。
11月3日から7日、南嶺会の早川、長田、土屋が五葉尾根―北岳―両俣―北沢―大武川。
甲府駅から芦安・大曽利まで自動車が入れるようになる。
1933
(昭和8)
5月5日から8日、南嶺会の百瀬舜太郎、早川安治、今沢茂が南御室―地蔵ケ岳―石空川右俣―荒鞍山―大武川。
6月14日、英国大使館員のマクレーとネスタ夫人が地蔵仏。ネスタ夫人の登はんは女性初。
7月11日、釜無保勝会設立。鋸岳、甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳への近道として釜無登山道が開かれたのを機会に整備、案内人養成のため富士見、落合、大武川の有志で結成した。
7月22日から26日、南嶺会の早川安治と甲府商業生5人が鳳凰山―北岳―間ノ岳―両俣―北沢―大武川。
7月31日から8月4日、大沢伊三郎が野呂川―小仙丈沢―大仙丈沢―大武川。
8月7日から11日、今沢茂、佐野一男が荒川本谷―大井川―東俣―奈良田―増穂。
8月27日、南アルプス連合山岳会設立。登山者の急増、施設不備に対応するため、地元の山岳関係24団体が集まった。登山道改修、紹介、宣伝の統一、案内人養成の講座開設、土産品開発などを目的に掲げる。
この年の中部山岳登山者数は富士山10万1814人、御岳3万3944人、上高地6259人、白馬岳5830人、木曽駒ケ岳4882人、八ケ岳2987人、甲斐駒ケ岳2532人、槍ケ岳1362人(中部旅行協会調べ)。
山小屋料金は北沢長衛小屋が1泊3食で1円80銭。富士山は5合目で1泊3食で1円50銭、案内人は頂上まで1泊2日で4円。
アスナロ沢論争起こる。この年創刊の『ケルン』1号で、山本明がアスナロ沢遡行記を載せた。これに対し平賀文男が2号で、山本が遡行したのは農鳥沢であると反論した。今も混乱が続いている。
1934
(昭和9)
4月5日から8日、南嶺会の早川安治、長田賢、鈴木喜太郎が北沢を遡行して北岳。
5月7日から9日、今沢茂、小田和友蔵が農鳥沢から農鳥岳。
5月15日、日本空輸が東京―富山間の空路営業を開始。「秩父、八ケ岳、南アルプスの展望」を宣伝した。1人16円。
7月7日、鈴木喜太郎、山田よし子(26)、三井松子(20)、中谷糸子(22)が地蔵仏。山田ら3人は日本女性の地蔵仏初登頂。
11月上旬、鈴木喜太郎がガイドレスで北岳。翌年、「ガイドレス登山記吹雪に立つ北岳へ」を『山小屋』109号に発表。
清哲村から地蔵ケ岳の登山道12キロを地元の労働奉仕で整備。1メートル幅の登山道に。また北御室小屋に小屋番を常駐させることになり、水石春吉の弟小沢時太郎が入った。白鳳会が韮崎駅前に登山の案内所を開くため案内嬢の採用試験を行った。
1935
(昭和10)
4月22日から27日、早川、清水、鈴木(南嶺会)がアスナロ沢から農鳥岳。
6月10日から13日、南嶺会が農鳥岳東壁に挑戦。荒川本谷入り鈴木、早川、長田が試登したが途中で断念。別パーティーの三井、百瀬、清水は本谷から頂上へ。
7月6日から12日、鈴木、山田よし子、三井松子(南嶺会)、県山林課員が白根三山縦走。
7月13日、甲斐駒七丈小屋で東京方面からきた登山者3人が利用代金を踏み倒す。上旬には青木鉱泉でも同様の被害があり、白鳳会が韮崎署に取り締まりを要請。
7月21日から28日、南嶺会の鈴木、早川、甲府商業生渡辺謙太郎、早川倉三が白根から聖岳を縦走、聖沢に出る。
7月25日から31日、身延中山岳部が二軒小屋―塩見岳―荒川岳―悪沢岳―二軒小屋。常磐、茂手木両教諭がリーダー。3年の神戸肇は13歳9カ月で南ア踏破の最年少記録。
8月8日、鳳凰山で東京の鉄道職員飯田操六(27)が行方不明に。
8月25日、東京一高の杉浦四郎(20)、水上武治(22)が北岳を目指して入山したが消息が途絶えた。28日に甲斐駒経由で下山予定だった。
9月23日、長野・遠山川から入山、南アを縦走し西山に31日下山予定の青木義行(22)、小島政五郎(23)が行方不明に。
1936
(昭和11)
6月8日から11日、百瀬、鈴木、早川、長田(南嶺会)が黄蓮谷遡行。
7月、南嶺会の鈴木喜太郎と甲府商業生5人が白根三山から赤石岳を縦走。
7月21日から、甲府中山岳部の井上清部長と生徒17人が辻山―薬師岳―地蔵ケ岳―韮崎。
7月22日から、日川中山岳部の水口清雄部長と生徒9人が南アルプス登山。
7月25日から、甲府中山岳部の井上部長と生徒3人が白根三山―赤石岳を縦走。
7月26日、石塚末吉が北岳でクモイカグマ発見。
8月1日から、甲府の小菅恒造、伝八が荒川本谷―農鳥岳―大井川―塩見岳―三伏峠―赤石岳―聖岳―椹島―二軒小屋―新倉―甲府の大縦走。2人の経歴は不明。
11月4日、甲府出身の登山家細井吉造が中央アルプス南駒ケ岳で遭難死。遺稿集『木曽谷伊那谷』が有名。甲斐駒ケ岳、甲府北部の山々を特に愛し「甲斐駒之助」のペンネームも使った。長野・飯島町の与田切川左岸に遭難碑がある。
11月19日から、山下正崇(南嶺会)が甘利山―千頭星山―辻山―南御室―芦安。
12月、小田和友蔵、今沢茂が冬期の農鳥沢初遡行。
12月27日、東京商科大の小谷部全助、森川真三郎が冬期バットレスの第1、第4尾根初登はん。
1937
(昭和12)
6月12、13日、甲府中山岳部の井上部長が甘利山―千頭星山―辻山往復。
6月30日から7月上旬、県山林課が山小屋修理のため4班を派遣。鳳凰山―高嶺―アサヨ峰―仙水峠―甲斐駒ケ岳―駒城村(課員高橋正夫、渡辺晴二)白根三山―仙丈ケ岳―甲斐駒ケ岳―駒城村(課員小俣)五葉尾根―北岳―両俣―仙水峠―甲斐駒ケ岳―駒城村(西内幸太郎、小山)。
7月21日から23日、甲府中山岳部の井上部長、生徒の相沢幹雄、保坂、岩沢、内藤、大竹、田中、伊藤、笹川の9人がペデの岩小屋―北沢遡行―北岳―鳳凰山。
7月22日から、甲府商山岳部が白根三山縦走。
7月25日から、甲府工業山岳部の広瀬欣郎、苗村敬、大島全弘が白根三山縦走。7月25日から、南嶺会の早川安治、甲府商山岳部が白根三山―赤石岳縦走。
7月26日から、甲府湯田女学校の小林健蔵と生徒40人が鳳凰山。
8月8日から、大泉村水産講習所の藤井銀造が荒川小屋―北岳―間ノ岳―農鳥岳―西山。
1938
(昭和13)
7月10日から、山梨高等工業山岳部の大沢政市、竹村東虎、肩上和夫、坂上慶麿が白根三山。
7月17日から、山梨高等工業の島津俊治、清水良平、下田好穂、溝口登、森久雄が白根三山。
7月21日から、日川中が白根三山、八ケ岳、富士山、大武川など5パーティーを派遣。
7月29日から、韮崎中2年の小池公広、功刀長朝、伊東省吾、大村梅夫が鳳凰山―高嶺。
7月31日から8月3日、アサヨ峰で東京市立商業の4人が遭難、死亡。1日にアサヨで道に迷い、3日に竹沢長衛が現場に。
1939
(昭和14)
7月16日、北岳で合宿中の神戸高商山岳部員4人が雷の直撃を受けて朝田武彦、中村考一が死亡した。南アで初めての被雷遭難。
8月6日、岐阜農高山岳部が北岳で遭難死した仲間の慰霊登山。「昭和十二年八月九日バットレスに眠る大橋君の立墓のために来る」の記録あり。
8月11日から、日川中の水口清雄教諭、生徒の大沢袈裟芳、萩原義路、小林道夫、川久保正郎が荒川小屋―(白根三山)―広河原小屋―(鳳凰山)―青木鉱泉。
1940
(昭和15)
6月、荒川本谷を遡行した横浜の村松康夫が行方不明に。10年後の昭和25年、農鳥岳東壁中央稜を登はん中の山梨大生高室陽二郎らが遺体を発見した。
1941
(昭和16)
5月、南嶺会の遠藤武夫、石川、水口弥が池山吊尾根から北岳。
7月、県登山連盟主催の錬成登山が甲斐駒ケ岳、鳳凰山、金峰山で行われる。
10月、南嶺会の井上、遠藤、石川、水口、内藤が地蔵仏登はん。
1942
(昭和17)
7月29日、登歩渓流会の松涛明が北岳バットレス中央稜初登はん。
11月1日から3日、南嶺会の水口弥ら鳳凰山。
南嶺会の百瀬、今沢、井上が甲斐駒ケ岳へ。白州往復は自転車を使っての日帰り登山。
1943
(昭和18)
7月、松本の歯科医師父娘が甲斐駒の坊主尾根で迷い、父親は疲労死、娘は尾白本谷を下降し助かる。
秋、東京の中学生添田春吉らが甲斐駒山頂で吹雪に遭いほこらに避難したが、添田が死亡。
1946
(昭和21)
9月、千葉の菅井二郎が甲斐駒で凍死。昭和6年の石倉初雄と奇しくも同じ六方石付近だった。
1947
(昭和22)
4月20日、南嶺会が再建懇親会を夜叉神峠で開催。三井、遠藤、水口ら16人が参加。6月から10月にかけて鳳凰山(自転車往復)、白根三山、転付峠―赤石岳―小渋など8回の山行を集中させた。
菅原山岳会発足。地元の古屋五郎らを中心に登山環境整備に力を注いだ。
1948
(昭和23)
7月、山梨工専山岳部が甲斐駒ケ岳から聖岳まで縦走。
12月11日、県山岳連盟・日本山岳会山梨支部設立総会を甲府商工会議所で開く。会長大沢伊三郎、副会長三井松男、古屋五郎、理事長今井友之助。槙有恒、西堀栄三郎らを招いた。
1949
(昭和24)
7月23日から8月5日、日川高山岳部が南アルプス全山縦走に成功。飯島利彦部長(25)、リーダー藤巻隆基(3年)、三枝恒夫、窪田知雄、平松直樹(2年)、山本富平(1年)の6人。戸台から入り鋸岳―甲斐駒―仙丈―両俣―北岳―間ノ岳―塩見岳―荒川岳―赤石岳―聖岳―易老岳。2日、飯島部長が聖岳南斜面で滑落、負傷した。飯島の指示で藤巻、山本が前進し、光岳は断念したが、易老岳に達し、遠山に下山して救援を求めた。
10月10日、甘利山の椹池畔に白鳳会が建築していた「白鳳荘」が完成。
山梨大山岳会が発足(6月)。厳冬期に南ア全山縦走、中ア全山縦走、北鎌尾根―穂高縦走、北岳バットレス、甲斐駒の岩と谷、塩見岳のバットレス、聖学の谷と岩など、戦後の県山岳界をリードした。
1950
(昭和25)
9月下旬、山梨大山岳部の高室陽二郎らが農鳥岳胸壁を登はん。途中で古い遺体を発見し、翌年8月に収容。
1951
(昭和26)
1月、山梨大山岳部が極地法で荒川本谷―農鳥胸壁―白根三山。
8月、角笛山岳会の小野芳雄が赤薙沢で死亡。
1952
(昭和27)
6月、北岳池山尾根で東京の斎藤正之がタル沢の雪渓に転落、死亡。
7月、北岳で吉原高定時制山岳部の鶴見厚弘(17)、大村宗作(23)、神尾幸男(22)が遭難、死亡(鶴城山岳会に出動記録の詳報)。合宿中の甲府一高山岳部が救援作業。同じころ仙丈ケ岳でも千葉の佐野良松、石川利男、兵庫の吉崎広一が疲労凍死。
1953
(昭和28)
8月、北岳バットレスで神戸大山岳部の中川健司がザイルが切れて転落死。
8月、広河原の徒渉で学生が流され死亡。菅原山岳会がつり橋を設ける。
北岳の北沢上部に県が北岳小屋を開設。昭和40年に稜線に移って北岳稜線小屋を開設した。昭和53年7月1日に稜線小屋の跡に県営北岳山荘がオープン。
1954
(昭和29)
11月4日、夜叉神トンネル貫通。
1955
(昭和30)
5月、甲府岳人会の中村哲次郎が間ノ岳で吹雪に遭い死亡。
12月24日、厳冬期南アルプス全山縦走を目指す山梨大隊が白州を出発。元旦に間ノ岳を通過、光岳山頂を踏んで18日、寸又峡に下山した。
1956
(昭和31)
冬、雪稜クラブが極地法で大唐松尾根から農鳥岳に登る。
1957
(昭和32)
10月26日から30日、第12回国体の山岳部門が南アルプスで開かれる。
1959
(昭和34)
6月3日、北岳バットレスで成城大山岳部の二見泰司が4尾根登はん中、ハーケンが抜けて転落死。
6月12日から14日、鳳凰山で関東高校登山大会。
6月14日、芦安の案内人名取久平が大崖頭山で転落、搬送中に死亡。72歳だった。
7月25日から27日、からまつ山岳会が農鳥岳集中。アスナロ沢、中央稜、尾無尾根、細沢、無名沢、大唐松尾根、南沢、アレ沢、荒川本谷左俣など登る。からまつは後に北岳でも大規模な集中登山を実施。
7月28日から、甲府商高山岳部の22人(教師5人、生徒17人)が戸台―仙丈ケ岳―易老岳を縦走、平岡へ下る。
7月29日から8月9日、鶴城山岳会が北岳合宿でバットレス集中登はん。Cガリー、中央稜右の無名ルンゼ初登。
8月14日、台風7号が富士川沿いに北上、甲府で最大瞬間風速43.2メートルを記録。死者66人、不明24人。
9月26、27日、台風15号(伊勢湾台風)。奈良田で24時間雨量335ミリを記録。死者15人。この2つの台風で山岳地帯は大きく変ぼうした。
1960
(昭和35)
4月下旬、野呂川の深沢下降点コースが完成。
1962
(昭和37)
1月3日、甲斐駒ケ岳の赤石沢奥壁をアタックしていた東京白稜会の森義正、坪井森次、須藤一雄の3人が遭難死。この正月は1日から4日の間に全国で23件の遭難が発生、23人が死亡し1人が行方不明、32人が重軽傷を負った。
10月、芦安から広河原を結ぶ野呂川林道が完成。広河原まで車で入れるようになり、北岳が日帰りの山に。一方、五葉尾根、荒川本谷などのルートは廃道となっていく。
10月11日、北岳で嶺朋クラブの前田謙一、井上昇が遭難、死亡。
11月4日、間ノ岳から農鳥岳に向かう下りで成城大ワンダーフォーゲル部OBとその知人ら4人が疲労凍死。
1963
(昭和38)
1月、からまつ山岳会が厳冬期の北岳バットレスに集中。1尾根から4尾根、中央稜など登はん。
1964
(昭和39)
6月1日、南アルプス国立公園、八ケ岳中信国定公園指定。
7月20日、深田久弥の『日本百名山』(新潮社)発刊される。山梨からは八ケ岳、雲取山、甲武信ケ岳、金峰山、瑞牆山、大菩薩嶺、富士山、甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳、鳳凰山、北岳、間ノ岳。
12月30日、甲斐駒ケ岳でブロック雪崩が発生、3人が800メートル流されて死亡。気象状況は日本海低気圧。
巨摩高が櫛形山の自然観察、研究調査に着手。後に長年の成果を「櫛形山の自然」、「続櫛形山の自然」などにまとめて発表して反響を呼んだ。
1966
(昭和41)
4月、南アルプス巨摩県立自然公園指定。
7月21日から23日、甲斐駒ケ岳で甲府一高生が死亡。
1968
(昭和43)
7月15日から27日、鶴城山岳会が南アルプス全山縦走。
1970
(昭和45)
6月6日〜8日、鳳凰山で関東高校登山大会。
6月19日から28日、ソウル大OB山岳部が来県。富士山や北岳に交流登山を行う。
この年から白鳳会が鳳凰山周辺の沢に集中。大深沢、赤沢、立石沢、嘉助沢、シレイ沢、赤抜沢、石空川、アサヨ沢、荒沢などを登り会報で詳細を報告。
県がライチョウの生息調査に着手。昭和47年まで行い、期間中の出現個体数として白根三山29羽、鳳凰山3羽、甲斐駒ケ岳4羽、仙丈ケ岳7羽を報告した。調査結果は「山梨のライチョウ」としてまとめたが、絶滅の危機にあることを明らかにした。
甘利山で大規模な山火事が発生、レンゲツツジやスズランが大被害を受けた。地元の植栽でツツジは復活したがスズランは減ったまま。
1972
(昭和47)
10月、嶺朋クラブが北岳に嶺朋ルートを開く。
1973
(昭和48)
1月、甲府昭和山岳会が南アルプス全山縦走。
1974
(昭和49)
7月27、28日、県山岳連盟が山岳清掃を北岳、権現岳、編笠山で実施。
1975
(昭和50)
8月4日から8日、インターハイ山岳部門が南アルプスで開かれる。
9月14、15日、白鳳会が大武川一の沢。これを皮切りに昭和54年まで鳳凰山東面の沢に集中。大武川二の沢・水の口沢・本谷、大棚沢、黄蓮谷、黄谷右俣、熊小屋尾根、シレイ沢などを登る。
1976
(昭和51)
7月1日、山梨県キャンプ地利用適正化指導要綱を施行。キャンプ地が県内山岳全域で指定された。
1979
(昭和54)
1月、南嶺会が甲斐駒ケ岳の赤石沢奥壁を登はん。
7月、北岳に昭和大の小林太刀夫らが中心となって診療所開設。
11月、南アルプス林道が全線開通。芦安―長野・長谷村の34キロを結ぶ。北沢峠周辺の国立公園特別地域内工事をめぐって反対運動が広がり一時工事が凍結されていた。
12月16日、甲斐駒ケ岳黄蓮谷でアッセントクラブの中根起一(23)、池田照夫(24)が滑落、死亡。
1981
(昭和56)
12月20日、甲斐駒ケ岳の黄蓮谷で表層雪崩が発生し、埼玉「あゆむ山の会」の勝見誠(22)、田中政司(32)、武田薫和(26)の3人が死亡。気象条件は二つ玉低気圧。
1982
(昭和57)
3月22日、甲斐駒ケ岳で表層雪崩に2人が巻き込まれ1人が死亡、1人がけが。南岸低気圧。
8月1日から3日、台風10号と停滞前線による大雨。北沢峠で768ミリの豪雨を記録した。南アルプス林道は164カ所で寸断され、野呂川と大小の沢は土石の崩落で姿が一変した。両俣小屋は濁流にのみ込まれ41人が小屋裏に避難、仙丈ケ岳を経て全員無事脱出した。
この年、高山植物保護を目的とした山梨県山岳レインジャーの業務を山梨県が山梨県山岳連盟に委託。
1984
(昭和59)
11月18日、甲斐駒ケ岳の五合目小屋が開設100年の式典。
1985
(昭和60)
10月9日、山梨県高山植物保護条例制定。
1986
(昭和61)
4月1日、山梨県高山植物保護条例施行。
10月、かいじ国体開く。山岳競技で天皇杯、皇后杯を獲得。山岳競技は12日から17日まで鳳凰山系を舞台に行われ、監督・選手368人が参加した。県山岳連盟は約200人が連日運営にかかわった。
1987
(昭和62)
8月27日、深沢今朝光(元稜線小屋)が北岳でヒメヤナギランを発見。
1988
(昭和63)
12月29日から1月3日、県山岳連盟が創立40周年を記念して厳冬期県境一周縦走を達成。全体を15区間に分けて加盟山岳会が一斉に入山した。縦走参加者は約110人。支援隊や留守本部を合わせると200人以上が参加する大事業となった。
1991
(平成3)
7月5日から7日、全日本登山大会が南ア北部で開かれる。
1994
(平成6)
1月、種の保存法による希少種にキタダケソウが指定される。採取、譲渡が全面禁止となった。
8月7日、北岳でクリーン作戦実施。110人が参加。
1995
(平成7)
8月5、6日、12日から15日、広河原に安全登山指導所を開設。登山者指導を行う。
1996
(平成8)
8月4日、県山岳連盟が南ア北部でクリーン作戦。
8月20日から24日、インターハイ山岳部門を南ア北部で開催。韮崎高がアベック優勝、都留高男子が2位に入った。県山岳連盟の多数が運営に携わった。
夏、南アルプス倶楽部が北岳の大樺沢で汚染状況調査を行い大腸菌を検出。
1997
(平成9)
2月、山梨県が山梨百名山を選定。
4月29日、芦安にクライミングボードが完成、第1回芦安カップ大会を行う。
8月8日、山梨県が8月8日を「やまなし山の日」と決める。
8月26日、環境庁がアツモリソウ、ホテイアツモリソウを希少種に指定。
8月27日、日本山岳会山梨支部が平成7年から続けてきた「南アルプスの将来像」フォーラムの結果をまとめ、県知事らに「山梨県の山岳環境の将来について」として提言。
9月24日、県山岳連盟が山岳や登山の研究、安全登山の普及、山岳文化の保存や研究を目的とした「山岳総合センター」(仮称)の設置を県、県教委、県議会などに陳情する。
1998
(平成10)
6月18、19日、甲府で第1回の全国山岳トイレシンポジウム開く。
1999
(平成11)
4月29日、北岳の白根御池小屋が雪崩で全壊しているのを管理人が発見。草すべりで発生し、池で古いデブリに遮られて直角に曲がった。
北岳大樺沢二俣と富士山8合目に夏山シーズン中、仮設トイレを国、県が設置。
11月、仙丈ケ岳の薮沢カールに新しい山小屋が完成。ソーラー、風力発電装置を導入し、合併浄化槽を動かす新方式。
2003
(平成15)
3月21日、南アルプス芦安山岳館オープン。
4月1日、町村合併で南アルプス市が誕生。芦安村分の南アルプスは新しい市に編入される。