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2003.3.13 所属カテゴリ: 北岳 / 登山 / 百名山 /

小太郎山

 山梨百名山(1997年選定)のひとつ。標高2725メートル。山梨県南アルプス市。

■北岳に従う不遇な一角

 間ノ岳の西面で産声をあげた野呂川は、北岳と仙丈ケ岳の間を北流する。北沢との合流点で東に向きを変え、小太郎山を大きくうかいして南東に流れ広河原に至る。夜叉神峠の西、この奥深い谷をかつては「野呂川入」と呼んだ。昔から芦安の猟師や山仕事の人たちが入り、重要な生計の場だった。=【写真】小太郎山(手前)と甲斐駒ケ岳

 仕事場の拠点・広河原に入るには2つのルートがあった。一つは夜叉神峠から北に登り杖立峠に出て、鳳凰山の山腹を下って行く五葉尾根。もう一つは夜叉神峠から野呂川の鮎差に下り、ここから川沿いにさかのぼる。芦安の娘たちは、行きは食料や生活用品、帰りは木工品を背負って長く急な坂道を行き来した。

 野呂川入に本格的な伐採の手が入ったのは江戸時代。作業の拠点になったのが小太郎山のすそにある広河原だった。芦安村誌によると1834(天保5)年、甲府勤番に江戸城修理材の調達命令が出た。太さ2尺角(縦横約60センチ)長さ8間(約14.6メートル)の規格で5000石(約1400立方メートル)。

 大木がそろう野呂川沿いに白羽の矢がたった。しかし、これだけ大量の伐採は芦安には経験がない。材木は野呂川に流して運ぶが、慣れた人間はいなかった。ここで登場するのが木曽の中村儀助だ。命を受けた儀助は手下を引き連れて広河原に入った。

 6月から作業を開始。急な斜面の伐採、搬出は困難を極めた。犠牲者も出た。ひと夏では作業は終わらず、儀助は広河原で越冬。雪山を巡視中雪崩に巻き込まれて死ぬ。翌年建てられた供養塔は1959(昭和34)年の台風で流されるまで、山仕事の人たちが安全を祈ったという。157年後の91年、芦安村長が長野・大滝村を訪れ、儀助が実在したことを確認している。

 明治の末、甲府中学に赴任した若き野尻抱影は『野呂川の樵夫達』を書き残した。それによると広河原に20人以上、上流の両俣に30人、白根御池と荒川のボーコン沢入り口にそれぞれ2、3人がいた。いずれも芦安の人間で、小屋掛けをして山仕事をしていた。両俣では、ほぼ全員が銀の懐中時計を持っていたのに驚いている。=【写真】小太郎山の山頂と仙丈ケ岳

 広河原から針葉樹の中の急坂を登りきると白根御池に出る。小さな池だが、登山者の憩いの場所となっている。池に石を投げ入れ、竜神を怒らせて雨を降らせる雨ごいが行われていたという。

 「太郎」は、最も優れたもの、最大の物事を指す。利根川の別名・板東太郎がこの例にあたる。すぐ南にそびえるジャイアント・北岳に対し「小太郎」となったとする説がある。 〈「山梨百名山」 山梨日日新聞社刊〉