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2003.3.13 所属カテゴリ: 鋸岳 / 登山 / 山域 / 百名山 /

鋸岳

 2685メートル。山梨県北杜市白州町と長野県伊那市の境。大きな山体、広い山稜が特徴の南アルプスにあって、岩稜と岩壁が連続する特異な山。甲斐駒ケ岳から北西に延びるノコギリ状の岩峰群の総称で、名前もここからついた。熊穴沢の頭、第2高点、大ギャップ、小ギャップ、第1高点、三角点ピークなどの名がついている。三角点ピークは2607メートルで第1高点の方が高い。戸台川(長野)から沢沿いにいくつかの登山道、甲斐駒からの縦走路がある。しかし危険が多く一般登山者向けの山ではない。1997(平成9)年、山梨百名山に選定。

■岩が織りなす特異な姿

 北アルプスに比べ、山梨には岩の山が少ない。西穂高―奥穂高―前穂高岳、剣岳周辺、鹿島槍ケ岳―五竜岳のような岩稜コースは楽しめない。その中で唯一鋸岳だけが異彩を放っている。甲斐駒ケ岳の北西、中ノ川乗越(のっこし)から三角点ピークまでの直線で1.5キロ間は岩場の連続。アルペンムード満点だ。ただし、しっかりしたルートはなく、岩登りの技術がないと登れない。=【写真】鋸岳

 山容は東西に長く、北の小淵沢、南の仙丈ケ岳から見てもギザギザの姿をしていて、名前の通りノコギリの刃を上に向けたようだ。もろい岩と崩れ落ちた岩片が積み重なり、一日中落石の音が絶えない。

 甲斐駒から三ツ頭を経て中ノ川乗越まで来ると本格的な岩稜となる。第2高点から南に下って大ギャップ。ザイルを使って登り返すと鹿窓。岩に開いた窓のような穴をくぐって反対側へ。今度は小ギャップ。再び登り返して狭い岩場を登り切ると最高ピークの第1高点。さらに角兵衛沢のコルに下り、角兵衛沢の頭を経て三角点ピーク。ここまで来てやっと緊張から開放される。

 この山に最初に登った登山者は星忠芳。1911(明治44)年7月18日、星は辻本満丸とともに日向山から入山。19日、体調の悪い辻本を残し苦闘の末、第2高点に達した。翌年7月には小島烏水と岡野金次郎が横岳峠から第1高点に立った。=【写真】鋸岳第2高点と北岳

 星は第2高点の様子を次のように書いている。「頂上は岩場多くて狭し、中央に石塊を積み、高さ2、3尺、径2、3尺の石垣ありてはなはだ意外なり。(略)北西方直ちに見ゆる連山は鋸の最高点なれど、巌壁深く、山背を刻み、しかもいささかの崩巌もなく、絶壁なれば登攀(はん)の望みさらになし」

 人跡未踏のはずの頂に、既に人が登った痕跡が残されていた。小島らも第1高点直下に野宿の跡を見つけ驚いている。

 星と小島らが最初の登頂者として登山史には残っているが、実はもう1人、同じ人間が両パーティーに同行し、2つのピークに立っている。武川・柳沢の山案内人、水石春吉だ。水石の名は古い登山記録にしばしば登場する。当時の登山は、現地の案内人が大きな役割を果たしていた。

 水石は、後に平賀文男とともに積雪期の北岳第2登も達成している。W・ウエストンの北岳登山には清水長吉、伊藤正雄、また地蔵仏初登攀には芦安の清水熊次郎、清水弥十郎らが同行。第3登のH・E・ドーントの際は深沢義長、清水友一、清水開一も登っている。このほか名取治太郎、名取久年、清水義信、青木久次郎らがいる。青木は芦安登山組合を組織して熱心に指導したという。

 岩ばかりの山とみられがちだが、高山植物も豊富だ。西面は釜無川の源流。建設省が立てた源流碑がある。 〈「山梨百名山」 山梨日日新聞社刊〉