甲斐駒ケ岳

甲斐駒ケ岳
 県の西域に連なる南アルプス連峰の北の主峰をなし、標高2,967メートルに及ぶせん(閃)雲花こう岩から成る山地である。その北西側は断層がい(崖)で、急斜面を呈し、釜無川に低下する。この花こう岩の貫入は地質上、中生代白亜紀とされ、造山運動を激しく受けて、いまなお高く険しい山岳をつくる。周囲には、壮年期の地形が発達し、谷壁も急で、山頂やや南には摩利支天の奇峰がそばだつ。この花こう岩は、周囲の地層に接触変成作用を与え、美しい貫入片麻岩などがつくられている。山梨県北杜市白州町、長野県伊那市。1997(平成9)年、山梨百名山に選定。
南アルプスNET−甲斐駒ケ岳
■日本の十指に入る秀峰
甲斐駒ケ岳
甲斐駒ケ岳
 「日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ケ岳をあげよう」「日本アルプスで一番奇麗な頂上は、ときかれても、やはり私は甲斐駒ケ岳をあげよう」。深田久弥が「日本百名山」で甲斐駒ケ岳に贈った賛辞だ。そして「甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう」と書いた。
 山梨の西に障壁のように立ちはだかる南アルプス。静岡で頭をもたげた峰々は延々150キロを北上、この三角錘(すい)の独立峰で終わる。北杜市白州町の登山口から山頂までの標高差は2,200メートル。急な登りが9時間続く。「日本アルプスで一番つらい登り」(深田)だ。
 人間に試練を与えるような登山道を開いたのは弘幡行者(後の延命行者)で、1816(文化13)年といわれる。登路を求めて3年、300日を費やしたと伝わっている。江戸時代から明治にかけて信仰登山が盛んだった。登山道沿いの多くの石碑が往時をしのばせる。
 しかし開山前から里の人たちに山頂の様子は知られていた。開山2年前に出来上がった『甲斐国志』に風景の記述がある。さらに「山頂に駒形権現があり、聖徳太子の馬はこの山に産した」「釜無の水源に神馬の精あり。この水を飲み蓄える馬飼いは霊験なり」とある。駒形権現は、衆生を救うために馬となって現れた神や仏をさすという。
甲斐駒ケ岳山頂
甲斐駒ケ岳山頂
 山名の由来は(1)この伝説の神馬から(2)古代から名馬の産地(3)駒は巨摩、高麗で、山ろくに住んだ渡来人からーなどの諸説がある。伊那谷では西駒ケ岳(木曽駒)に対して東駒、あるいは白崩山と呼んだ。
 山頂に一等三角点が設けられたのは1891(明治24)年7月。新田次郎の『点の記』の題材となった北アルプス剣岳への設置は、16年後の1907(同40)年だ。
 国土地理院は80年後の1987年、標高の再測量を行い、それまでの2,966メートルから1メートル高く修正した。一時は造山運動のためにノッポになったと騒がれたが、三角点の西に1メートル高い所があったのが真相だった。
 登山史上で忘れてならないのが、地元の菅原山岳会と東京白稜会。菅原山岳会は戦後、登山ルートや山小屋の整備に尽くした。白稜会は、尾根と谷、岩のルートを次々と開拓していった。
 南アルプス林道ができて頂上へは北沢峠から比較的短時間で登れるようになった。しかし往時の表参道、北杜市白州からの黒戸コースは一度は歩いておきたいルートだ。
 北面から流れ出る尾白川は日本名水百選の一つ。南面の大武川は暴れ川として知られ、かつては度々大水害を起こした。 〈「山梨百名山」 山梨日日新聞社刊〉

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